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 さて、「高松散歩」のコーナーを作ったはいいけど、どんなことを書こうか??・・・  と、思い悩みながら、決めました。

 ★ このコーナーでは、私の好きなこと、街で見つけたこと、趣味の音楽、スポーツあたりを中心にごった煮でしかも文体等にもこだわらずに徒然日記風に記していきます。
 独断と偏見で勝手な言い分も出てこようかと思いますが、そこはご容赦を。

■■■ 第八十回 ■■■

画期的ではあった国の事業仕分け

11月27日

 昨日上京し、構想日本の主宰の第148回「J.I.フォーラム:事業仕分けの先駆者 大いに語る」という会合に、既に事業仕分けを実施している市長の代表の一人として参加してきました。
 フォーラムは、虎ノ門の日本財団の会議室で行われましたが、当初120名ぐらいの傍聴者を予定していたところ、事業仕分け人気で参加者が膨れ上がり、300名近くなったということで超満員でした。
 パネリストは、山田京都府知事と私を含めた11名の市町長。
 山田知事は京都府の独自の事業仕分けを中心に約15分間しゃべって早退されました。

 コーディネーターは、構想日本代表で行政刷新会議事務局長の加藤秀樹さん(高松市出身)の予定でしたが、公務で遅参されたため、急遽、前滋賀県高島市長で国の事業仕分けの仕分け人もやっている海東さん(私とは、亡父を通じた青年団関係で旧知)が代役を務められました。
 市町長は、一人3分という持ち時間で事業仕分けについて何でもいいからしゃべれ、ということでした。
 普通、市長にマイクを持たせて3分で終わらせろというのは、ほぼ実効は期し難いものですが、そこは、市長経験者の海東さん。3分近くなると相撲の時間合図よろしく、すっと立ち上がり、無言の圧力をかけて、どうにかスムーズに進行を図っていました。

 私は、マニフェストで示した3つの方法論「@情報公開の徹底、Aコミュニケーションの活性化、B説明責任の全う」を次期行財政改革計画の策定においても実践していく一つの手法として、「事業仕分け」を導入した経緯を説明し、政策の決定過程やその理由がオープンにされ議論されたことで、、市民の関心も大きく、職員のプレゼンテーション能力の向上、意識改革の大きな契機となった、ことなどを話しました。

 加藤さんは、国の事業仕分けが各種メディアで連日報道されることによって自分が発案した構想日本の事業仕分けが大きな注目を浴びているのは嬉しい限りだが、メディア(特にテレビ)は、仕分けのごく一場面だけを取り上げ、事件的に面白くしたてて、報道するので、非常に誤解されている部分がある、ということを言っていました。そして、本来の事業仕分けの醍醐味は、行政の先端(末端ではない!)である市町村においてこそあるのだ、ということを強調されていました。

 シンポの中で、加藤さんが紹介された、構想日本宛に来た一市民のメールの中に、今や事業仕分けは、ホームレスの会話の中にも登場している、という話もあり、なんやかんや言われているものの、事業仕分けは、今や国民的人気を博していることは、間違いないようです。


 そこで、私も、この国民的行事となりかけている国の事業仕分けの現場を見てみようと、最終日となった今日午前中、新宿区市ヶ谷の印刷局体育館を覗いてきました。
 9時半開始で、私が行ったのは10時頃だったのですが、既に入口のボディチェックのところに行列が出来ていて、中に入っても、傍聴席は満席。多くの立ち見の人で既にごった返していました。もちろん報道陣も多く、テレビカメラが列を作っていました。

 会場では、3つのワーキンググループが、同時並行で事業仕分け作業を行っていました。


 私は、まず、経産省の事業を扱っていた第2ワーキンググループのブースを見学。しばらく議論がされた後で、時間となり、おもむろに仕分け人代表が、「このサービス産業生産性向上支援調査事業(概算要求約15億円)は、廃止と判定させていただきます」と結論を告げました。
 いきなり「廃止」です。それも十分あり得るとは分かっていても、過去官僚の私はどうしても自分に告げられたように受身に捉えてしまい、ドキッとすると同時に、担当者に同情の念が湧きました。案の定、担当者はすがるように「それでは、我々がサービス産業を育成していく術がなくなってしまいます。」と半ば涙声になりながら最後の抵抗を示していましたが、もちろん受け付けられるはずもなく、担当副大臣が、「一緒に代替案を考えていこう」と肩を抱くように引き取って終了。
 まるで一種の法廷ドラマを見ているようで、傍聴側にもある種の感慨が湧いて来ます。これまで、国の行政手続きの中で、こんな場面があり得ただろうか、と考えると、正に、世の中様変わり。その意味で、この国の事業仕分けという試みが、全く画期的なものであったことは、率直に認めざるを得ませんでした。


 その後、第1ワーキンググループが時間延長して仕分けをやっていたので、そちらに回ってみると、傍聴人の中に、身体の大きな髪を金色に染めた年配の男の人が座っていました。遠目では、誰か著名な外国人でも来ているのかな、と思っていたのですが、仕分けが終わって、その人がやおら立って移動しようとすると、テレビカメラ数台が寄ってきて、報道陣が押すな押すなと取り囲みました。そこで、「あっ」と気づきました。何とロックンローラー内田裕也氏でした。
 これには驚きを通り越して唖然としてしまいました。
 「そんな場違いな」、とも思いましたが、帰ってきて報道などを見てみると、大真面目で、「事業仕分けは画期的なものなので、ミュージシャンも見に来るべきだ」と言われたそうですね。

 これこそ、天地がひっくり返るくらいの画期的な出来事だと思います。

 事業仕分けの会場からの帰り際、加藤秀樹さんに再会したので、「この盛り上がりは、それだけで大成功ですね。」と声をおかけしました。

 ただし、政府の中で、行政刷新会議としてはこれで良しとしても、ここまで広げた大風呂敷を、誰かが責任を持ってたたんで、来年度予算として的確にまとめ上げることが必要になってきます。しかも年内に予算編成するとすれば、時間はもうありません。

 本市も含めた地方に関係する事業で大幅に見直しを行うべきとされたものも多く、そこのところの大きな不安は、私の中でも残ったままではあります。


■■■ 第七十九回 ■■■

ミュージカル「BAD」と映画「めおん」

11月25日

 この間の連休中、22日と23日に同じサンポート高松第1小ホールで、ロック・ミュージカル「BAD」と映画「めおん」を鑑賞する機会に恵まれた。
 まず、22日は「天保ギャングスターBAD」。地元劇団の銀河鉄道が毎年恒例の新作公演である。この劇団を主宰しているのが、今年の高松市文化奨励賞を受賞した上村良介さんである。授賞式のときに上村さんから「今度一度、芝居を見に来てください」と誘われて、ちょうどタイミングよく鑑賞の機会があり、行って来た。

 ステージは,一段高い2階席のようなところにロックバンドが陣取り、ギターとベースとドラムというシンプルな編成ながら、迫力あるロックを奏でるバンドの演奏に、演技達者な役者陣のそこかしこにダンスが取り入れられた軽快な芝居が乗せられ、期待に違わない最初から最後まで楽しく見れたミュージカルだった。地方都市の小劇団の公演とは思えない、水準の高い舞台に大きな拍手を送りたい。でも、考えてみればそれもむべなるかな。上村さんという中央でも活躍していた名伯楽が、ふるさと高松に帰ってきて、もう30年も地元でこの劇団を育ててきているのだから。


 BADという題名は、その通りの「」。上村さんは現実世界でなかなか出来ない「」を演劇の中で思いっきりやりたかったのだとか。でも、その例示が「女湯をのぞき見たい」と言うのには、本当にささやかすぎて、ずっこけてしまった。
 23日は、映画「めおん」の上映会。さぬき映画祭2009の上映作品の一つだが、女木島と男木島が舞台で、関連事業が市の観光プロモーション事業にも選ばれた映画である。制作発表の時とクランク・インの前に、監督や第2話主演の木内晶子さんなど関係者にご挨拶をいただき、その完成を今か今かと心待ちにしていた映画である。



 以下、今年の4月に記した私のホームページ「高松散歩」の記事 から。

 『「めおん」は、高松港と女木島、男木島を結ぶフェリーの名前である。それを運営する船会社は雌雄島海運という。
 女木島・男木島→女と男→雌雄→めおん、である。それが映画の題名の由来。
 当然、舞台は瀬戸内海に浮かぶ女木島と男木島。そこで繰り広げられる女と男の3つの物語をオムニバス形式で繋いで一つの映画にすると言う。3つの物語を繋ぐのも「めおん」である。』


 出来上がった映画は、この時の期待通りの、いや、それ以上のものに仕上がっていた。
 三部作それぞれのヒロインである、菊川怜木内晶子中村ゆりが、良い持ち味を出していたし、地元エキストラも含めて脇役も好演であった。特に第3話の子役2人の演技力には、脱帽である。
 シナリオをいただいて、読んだときには、面白いけど、単なる喜劇に終わらなければ良いが、と思っていたが、杞憂だった。この日の第1小ホールは、臨時席をいっぱいにとっても、たくさんの観客が入りきれなかったそうで、初上映会は、この上ない大成功に終わった。
 そして、映画の後は、嬉しいことに、菊川怜さんと木内晶子さんのトークショーが舞台で始まった。
 菊川怜さんも瀬戸内海と高松の夏と食など、随分気に入ってくれた模様で、社交辞令半分としても、「準ジモピー」とまで言ってくれたのは,嬉しかった。また、純地元出身の木内晶子さんは、故郷高松の良さを再認識した映画撮影だったようである。
 ついつい、二人の華やかさに見とれていて、トークの内容をあまり覚えていないのは、残念であるが。
 映画「めおん」は、3月下旬に高松先行ロードショーのあと、全国展開の予定。さぬき映画祭で見れなかった方は、乞うご期待である。


■■■ 第七十八回 ■■■

宿命の越境者、イサムノグチの遺産(その2)

11月17日

 イサムノグチ庭園美術館開館10周年のイベント第二弾。

 イサムノグチの105歳の誕生日に当たる今日は、午前中、牟礼の庭園美術館でのフルートコンサートが行われ、午後はかがわ国際会議場で記念講演会が、夜は栗林公園の商工奨励館で誕生日を祝うレセプションと盛りだくさんのイベントが行われた。
 私は午後の講演会の冒頭で挨拶して、その後の行事に参加させてもらった。

 講演会の2人の出演者の顔ぶれが贅沢だった。まさに今の日本におけるイサムノグチにつながる「知の巨人」で、話を聞きたい人を2人選べ、と言われれば、(私は)この2人の名前が出てくる、といっても過言でないお二人が、それぞれ1時間程度、本当に中身のぎっしり詰まったお話を聞かせてくれた。
 ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏と編集工学研究所所長の松岡正剛氏である。
 小柴昌俊氏は、言うまでもなく、ニュートリノの観測等での素粒子物理学への貢献によりノーベル賞を受賞した現代の我が国を代表する科学者のお一人である。
 松岡正剛氏は、「編集工学」という独自の学問領域を追求しながら、日本の伝統文化をベースにおいて(講演の中での言葉を借りて言うなら)芸術と科学を融合させる方向性を探っている研究者である。また、松岡氏は、インターネット上で毎日1冊ずつの本の評論を数年間に渡って続けた「千夜千冊」(今は1328夜)の偉業を成し遂げた本の達人でもあり、私も初級過程「守」を卒門(この学校は卒業とは言わない)したISIS編集学校の校長先生なのである。編集学校は、インターネット上の学校のため、校長先生とネット上での言葉でのやり取りはあったが、私が松岡氏にお会いして挨拶するのは、初めて。名乗り出て、名刺交換をすると、大層喜んでくれたのは、嬉しかった。

 講演の内容を項目だけ羅列し、ごくごく手短に紹介すると
 小柴氏は、世界平和から説き始め、一神教と多神の世界、主体と客体の分離・非分離、能動と受動、科学と芸術を解きほぐしていき、専門の素粒子物理学と宇宙との関係を話され、最後は自身のライフワークとされている平成基礎科学財団への協力を呼びかけられた。
 松岡氏は、イサムノグチという巨人の人物像をあぶりだすために、東洋と西洋、一神教と多神・多仏、天使と天女、物質と精神、日本の神話、空と現(「うつ」と「うつつ」。空(うつ)が写・映・移(うつ)になっていき、現(うつつ)につながっていく。それを造形したのがイサムノグチの代表作で牟礼の庭園美術館にある「エナジーボイド」(ボイドは空、虚という意味がある)ではないか。)などを、その博覧強記振りを遺憾なく発揮されて、お話いただいた。
 お二人の話を聞いていて、3時間近くがあっという間に過ぎ、「もっと聞きたい」と思ったほどであった。

 そして夜は、20日からの本番を前に、特別にライトアップされた栗林公園で、わざわざ高松まで駆けつけていただいた、イサムノグチ・ニューヨーク財団の関係者、アメリカ大使館職員、東京のシンポジウムに出演されていた谷口吉生氏安田侃氏など多彩なゲストも交えて、関係者でコース料理をいただきながらのバースデーパーティーが和やかに開かれた。
 パーティが終わった後、皆で公園内を散策したが、朝からの雨もやみ、洗われた緑や紅葉も格段に美しく灯りに照らされ、一筋通った日本の美と静寂がそこにはあった。その雰囲気は、イサムノグチの愛した日本にかなり近いものであるように私には思えた。

 今回の東京と高松でのイベントを通じて、イサムノグチの偉大さとその残した遺産の大きさ、有難さを改めて(嫌というくらい)認識させられた。
 でも、そこにこめられた未来へのメッセージは、まだ私には定かではない。
 これからも、時々に庭園美術館をお邪魔して、いろいろと考えてみたい。

 因みに、誕生日を祝って、11月17日の日本版グーグルのロゴは、イサムノグチの作品であしらわれていました。
 なかなか可愛く、良く出来ています。


■■■ 第七十七回 ■■■

宿命の越境者、イサムノグチの遺産(その1)

11月15日

 朝から上京して、東京、青山の草月会館(イサムノグチの最大の作品「天国」がある)にて行われた、「イサムノグチ庭園美術館開館10周年記念シンポジウム」と「国際交流会」に出席し、関係者にご挨拶をしてきました。

 イサムノグチの誕生日(生きていると105歳)にも当たる17日(火)には、高松市でも記念イベントがありますので、中身の話はそれも踏まえて後から総括的に行いたいと思いますが、とにかく、このイベントの出席メンバーが凄かったので、まずは、速報でお伝えしておきます。


 高松出身の池田守男資生堂会長の冒頭挨拶に始まり、シンポジウムの第一部は、直接イサムノグチと交流のあった人たちの、それはそれは、なかなか聴けない濃い味の思い出話が中心でした。
 一番手が、約20年前に生前最後の写真を撮り、今の庭園美術館の写真と併せて、デザイナーの佐藤卓氏と共同で記念写真集を作成した篠山紀信氏。開口一番、「皆様は期待しているかも知れませんが、今日は、「表現の自由」についての話はいたしません。」と、会場の注目を一気にひきつけました。



 それから、・・と一つずつ話の中身を紹介していくと、とても納まりきりませんので、出演していた人の名前だけを以下、記しておきます。


 篠山氏の後が、彫刻家の広井力氏、そして洋画家で文化功労者の堂本尚郎氏。彫刻家の安田侃氏に建築家の磯崎新氏ときて、「イサムノグチー宿命の越境者」を書いたドウス昌代氏が続きました。この部のコーディネーターは、建築家の川村純一氏

 第2部は、キュレーターの新見隆氏をコーディネーターとして、建築家の谷口吉生氏、日大芸術研究所長の高橋幸次氏、グラフィック・デザイナーの佐藤卓氏、プロダクトデザイナーの深澤直人氏、演出家の宮本亜門氏、日米芸術交流プログラム代表のジョージ・コーチ氏でディスカッション。

 そして最後を締めたのは、世田谷美術館館長の酒井忠康氏でした。


 とにかく、日本のアート、建築、デザインの分野の大御所と現在第一線で活躍している凄いメンバーが集まり、その雰囲気だけで酔いしれるくらいでした。
 改めて、亡くなった後20年以上過ぎてもこれだけの人が追慕してやまないイサムノグチの偉大さ、を感じるとともに、猪熊弦一郎氏金子正則元知事などのイサムノグチと香川、牟礼とを結び付けてくれた先人、並びに、亡き後のアトリエを立派に残し、庭園美術館として保存運営をされている和泉正敏理事長ほかの関係者のご労苦に、敬意と感謝の意を表したいと思います。



 そして、シンポジウムのあと、国際交流会に急遽登場した大物ゲストは、ジョン・V・ルース駐日米国大使夫妻。ちょうど、オバマ大統領を送り出した後で、気分良く日米の文化交流イベントとして参加されたようでした。庭園美術館の地元市長ということで、私にも気軽に挨拶をしてくれて、握手し、記念写真も撮らせてもらいました。

 生い立ちや時代背景から日米の狭間に押し込まれそうになりながらも、地球規模で生き、地球規模で物事を考えようとした「宿命の越境者」(ドウス昌代さん命名)で、まさに地球を彫刻しようとしたイサムノグチだからこそなせた業、残せた(無形の)財産がこの人たちの輪の中に、そして、牟礼の庭園美術館の中にあるような気がしています。


■■■ 第七十六回 ■■■

祝!ASPAC2011 高松開催決定

11月1日

 今、次回ASPACの高松への招致のために台湾・彰化県に来ています。
 先ほど、代表者会議と昼食を終えて、ホテルに戻ってきましたが、ついに、2年後の11月に高松で第11回アジア太平洋盆栽水石大会が開催されることが決定しました。

 結局、高松のほかに立候補する都市がなかったため、参加国が全員一致して高松開催を支持してくれて、気持ち良く選出されました。(因みにASPACでは、競合しても投票は行わず、話し合いによるコンセンサス方式を取ることが多いそうです。)
 これまでの関係者の根回し等のご尽力と今回市民を中心に総勢約80名で台湾に乗り込み、招致のための強力にアッピールした努力が報われたものであり、皆様に感謝したいと思います。

 準備等でこれからがもっと大変だとは思いますが、とりあえず一つの関門を潜り抜け、ほっとしています。

 万歳!万歳!万歳!

JAPANナイト
(ウェルカムパーティ)で挨拶

大会役員のパイマン氏、岩崎氏と

 

開会式前に台湾大会の陳会長と

開会式で馬英九台湾総統にご挨拶

開会式で挨拶する馬英九総統

日本の若手第一人者、
鈴木伸二さんによるデモンストレーション

↑次回開催地を決めた代表者会議

 ←会場の萬景藝苑

↑    フェアウェルパーティでの
高松で会いましょう!の横断幕

 ←フェアウェルパーティでお礼と勧誘の挨拶

 ↑フェアウェルパーティでの
  一合まいたのおどりの輪

最後に台湾関係者らと→


■■■ 第七十五回 ■■■

加藤和彦さんの訃報に接して・・・

10月18日

 加藤和彦さんの訃報に接して、今夜は私の今持っている彼のレコードを聴いている。サディスティック・ミカ・バンドの不滅の名盤「黒船」(1974年)とソロアルバムの「うたかたのオペラ」(1980年)である。

 加藤和彦さんの歌を聴いたのは、もちろん最初は、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」をテレビで見て、シングルレコードを買ってもらった時だった。その後も「悲しくてやりきれない」や「あの素晴らしい愛をもう一度」など好きになったし、「白い色は恋人の色」(ベッツィ&クリス)や「不思議なピーチパイ」(竹内まりや)などの無国籍ワールド歌謡曲とも言える独特な音楽性に魅せられていた。そして、高校生の時、従兄弟が持っていた「黒船」を初めて聴いたときの衝撃は、今でも記憶に残っている。

 今夜、「黒船」と「うたかたのオペラ」を聴いてみて、2枚のアルバムが、全く異なる音楽で構成されているものの、高度で深遠な音楽性と大衆的普遍性が同居した、他に真似様のないオリジナルな加藤和彦ワールドが創り上げられているという点では共通していることを再確認している。それにしても発売されてそれぞれ35年、29年が経っているのに全く古さを感じない、と言うか、両者とも、方向性は違うが、今聞いてもそれぞれ近未来の雰囲気を感じさせる音楽だからびっくりする。 




 「黒船」が当時の奥さんであったミカさん中心に作ったバンドで、その雰囲気にあった音楽が作られているのに対して、「うたかたのオペラ」の方は、全ての曲の詩が当時結婚していた作詞家故安井かずみさんの手によるものであることから、両アルバムの音楽性の違いは、その時々のパートナーとなっていた女性の存在が大きかったのかも知れない、などと余計なことまで考えてみたりしている。そう、他人に対する大きな優しさも、加藤和彦さんの(音楽の)特徴でもあるような気がしている。

 それにしても、文字通りであるが、「悲しくてやりきれない」。「タイムマシンにおねがい」して、元気な加藤和彦さんの生の音楽をもう一度、と言っても詮無いだけだが。


■■■ 第七十四回 ■■■

神在月に出雲(松江)に集合−定住自立圏サミット

10月18日

 活動報告でも書きましたが、先週、総務省の主催する「定住自立圏全国市町村長サミット2009IN島根」に参加するため、私が以前3年間程暮らしていた島根県松江市を訪問してきました。このサミットは、定住自立圏構想を進めようとしている全国の市町村長有志が集まったもので、一般の傍聴者等も含めると800人近い参加者で賑やかな会議となりました。

 ところで、このような全国会議が、ここ出雲の地で10月に開かれることには、特別の意味があります。それは旧暦の10月の呼称に関係しています。
 旧暦の10月の全国的な呼び名は、「神無月(かんなづき)」。このいわれには、諸説あるようですが、最もポピュラーなものは、10月には全国の神様が、出雲大社を中心とする出雲地方に集まって次の年の縁結びの相談をするため、各地域から神様がいなくなるため、というものです。そのため、出雲地方では10月は、全国的な呼称とは異なり「神在月(かみありづき)」となります。今でも出雲地方では、10月には出雲大社を中心にいくつかの神社で全国の神様を迎える「神在月」の神事がいろいろと執り行われています。

 そんな10月に、定住自立圏という市町村の縁を結ぶ広域行政制度の大会が出雲地方(松江)で開かれ、(神々と一緒に)全国から市町村長が集合することだけで、意義を感じないわけにはいけませんでした。この大会のサブタイトルがそのことを表しています。
 曰く、「縁(えにし)の糸が未来につなぐ地域力」です。 


 定住自立圏は、人口減少、少子高齢化が著しく進展すると予想される時代にあって、人口や文化という地域の力の源泉をいかに全国各地方で残していけるか、という課題に対処するために構想されたものです。いわば地方の地域力を確保、発展させていくためには、地方の中心都市と周辺市町村が協力し合ってその地域における人口や文化のダム的役割を果たしていくことが必要であり、そのツールが定住自立圏という広域行政制度である、と言うことです。


 定住自立圏を上手く機能させて、地域力を更に高めていくためにも、「縁(えにし)」を大切にする必要がある、と言うことを特に感じた訪問となりました。

 (追記:久しぶりに訪れた松江は、相変わらず、しっとりと落ち着いた山陰の古都という風情をもった町で、懐かしさと安らぎを感じさせてくれました。
 中でも、早朝、ホテルから宍道湖を眺め、しじみ漁の小船が10数隻、静かに櫓をこいで湖面を滑っていく姿を見ていると、心がすっと洗われるような気分になりました。)


■■■ 第七十三回 ■■■

芸術の秋−鳥の歌とイパネマの娘

9月20日

 新たにシルバーウィークと呼ばれるようになった9月の連休も、今年は5連休とまとまった休みとなる。今日はその2日目の日曜日。
午前中は、地域の敬老会を2つ回り、公務はここまで。
午後にクラシック・コンサート、夜にボサノバのライブに出かけ、芸術の秋を音楽で満喫する。いずれも予想以上の名演に感動し、充実感で一杯の秋の佳日となった。

 まずは、午後2時からサンポート大ホールであった瀬戸フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会にお招きを受け、久々のクラシックのコンサートにと、軽い気持ちで行った。
前半は、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」とシューマンの「交響曲第4番」。いずれも超有名と言うほどではないが、なじみのある私の好きな曲である。
指揮の山上純司さんが、曲もオケも上手くまとめ挙げた、という印象で心地よく聞けた。

 そして、クライマックスは、後半にやってきた。
今、ロシアで最も成長株で人気のあるチェリストという触れ込みで紹介されたボリス・アンドリアーノフが登場し、瀬戸フィルをバックにドヴォルジャークの「チェロ協奏曲ロ短調」を弾いた。この曲は、「ドボコン」という愛称でも知られるチェロ協奏曲の有名曲で、私もフルニエ(チェロ)=クーベリック(指揮)ウィーンフィル、マイスキー(チェロ)=バーンスタイン(指揮)イスラエルフィル、デュ・プレ(チェロ)=チェリビダッケ(指揮)スウェーデン・ラジオ響と3枚の名盤CDを持っている。それら名手の名演にどこまで近い演奏が聴けるだろうか、という若干意地悪な粗探し的な気持ちだったのだが、最初のソロが始まった途端、そんないい加減なものはすっとんだ。
チェロの音も良いし、めっちゃ上手い。音も技巧も超一流だ。後で知ったが、楽器自身もロシア政府国家貸与の18世紀イタリアのドメニコ・モンタニヤナ作で皇帝アレキサンドル一世の弟が愛用していたという名器中の名器だそうで、大ホール全体がその音色に魅了されていた。
そのまま、演奏に酔いながら、音楽にうっとりとし(ところどころでオケのミスらしきところもあったが、チェロの響きを中心とした全体の音の中ではご愛嬌)最後のコーダ、そしてブラボーの大歓声と拍手へと一気に流れ、感動が爆発した。久々に、これぞカタルシス(魂の浄化)というものを味わった。

 それだけではない。インタヴューを挟んで、2曲披露されたアンコールのソロ2曲がこれまた素晴らしかった。
一曲目は、アンドリアーノフの超絶技巧を堪能できた現代曲。そして2曲目がかの有名なパブロ・カザルス作の名曲「鳥の歌」である。
3分弱の演奏の中で、確かに鳥が舞い降りて、華麗に舞い、歌い、そしてまた飛び立っていった。
チェロが鳥のさえずりを奏で終えた時、本当に涙が出そうにまでなってしまった。
帰りに、「鳥の歌」も入ったアンドリアーノフの最新作のソロのCDを買った。

 夜は、今度はボサノバである。
丸亀町商店街を中心に、街角に音楽を@高松という面白く、有難い活動をしているAriaの鹿庭弘百さんの企画で、高松でもすっかりおなじみになったギタリスト木村純さん率いるボサノバの3人のユニット「ボッサファンタジア」のディナー付のライブに丸亀町のエアリーレストランLUCEに行ってきた。



 バイキング方式でフランス料理のディナーを一通り食べた後、おもむろにライブが始まり、ギターとバイオリンとキーボードの3人のユニットに鹿庭さんのパーカッションが加わった4人のメンバーが繰り広げるボサノバのリズムに足を踏み、身体をスウィングさせ、心地よい一時を過ごす。
イパネマの娘」をはじめ、「サマー・サンバ」、「コルコヴァード」など、おなじみの曲も数多く、気軽な雰囲気でのライブであるが、ボッサファンタジアの3人は、それぞれ演奏の水準が高く、本格的なボサノバ演奏に身体と心の芯から揉み解してもらって良い気分にさせていただいた。
ギターの木村さんとキーボードの鈴木厚志さんの高い技術とブラジル音楽への深い理解に裏づけされた演奏をベースに、「火の玉」とも称されていた森理子さんの元気なバイオリンの音が、時に踊り、時に咽び、時にささやき、時に雄弁に語り、音楽を紡いでいく。その横でいかにも楽しそうに鹿庭さんが、パーカッションで合わせて音頭をとっているのが、アットホームな雰囲気で上質な音楽を聴かせてくれるという、他では考えられないような貴重な時空を提供してくれていた。

後半には、ウッドベースで宮本吉朗さんも参加して、私の好きなジャズのナンバーをボサノバ風にしたりして聴かせてくれた。

 2年ほど前に、初めて高松に来たと言う木村純さんは、今ではすっかり高松の地が気に入っていて、是非、ここでボサノバをテーマに音楽のイベントが出来ないか、と提案されていた。すぐに大々的な音楽祭のようなものは、難しいかもしれないが、来年の芸術祭に味付けをする音楽イベントあたりから始めてみても面白いなあ、と心地よく疲れた右脳に刺激されて、左脳が少しだけ反応した。

 「良い音楽は街の風景を豊かにする。」というのが鹿庭さんのコンセプト。
まさにその通りだと思う。そして、もちろん、良い音楽は人の心も豊かにしてくれる。

 しばらくは、今日聴いた「鳥の歌」と「イパネマの娘」の演奏を思い返すだけで、幸せな気分になれそうである。


■■■ 第七十二回 ■■■

韓国仁川訪問記

9月8日

 活動報告でも書きましたが、去る9月2日(水)から9月4日(金)まで、韓国仁川広域市で開催された国際会議「持続可能な都市開発 世界フォーラム2009」にお招きいただき、当地を訪問してきました。

 一日目の全体会議での発表は、活動報告の通りです。私のメインの役割は、大勢の聴衆を前にしての英語での約20分間のプレゼンテーション。どうにか上手くいきましたが、さすがに終わった後は、どっと疲れました。


 2日目は、それぞれの分科会に分かれての行動。私達は、島嶼部の振興を考える分科会で、参加メンバー全員で、仁川の港から借り上げの漁船に乗り込み、会場である伊作島に向かいました。






 

 仁川の海は、韓国の中で干満の差が最も激しいところだそうで、大きいところでは、10メートルもの干満の差になるとのことです。しかも、海抜0メートルより少し低い干潟のような土地が陸地を取り囲んで広大に広がっているのが特徴です。実際、あの巨大な仁川国際空港も島と島との間に広がっていた干潟を埋め立てて作ったということです。

 船で海上を走ること2時間弱で、目的の伊作島の近くに着きました。そこには、島と島の間の海の上に、遠くから見ると巨大な蜃気楼のような白いベールが乗っかっているように見える、砂地の土地があらわれていました。聞くと、一日のうちの干潮時の3時間だけ陸地化する砂洲とのことです。それが見る見るうちに大きくなって、幅500メートルくらいの砂地が4キロ程度の長さにまで伸びていました。その砂地の上に小型船を介して上がり、散歩をしたり、地引網を引いたりして楽しみましたが、一時間もすると今度は、砂地がどんどん小さくなってきます。ほとんど高さのない砂地ですので、広がるのも早ければ、縮むのも早いものです。急いで分かれてボートに乗り、大伊作島に渡りました。そして、そこのペンションの中庭で、韓国料理のランチをいただきました。 









 ランチが終わって海を見るとさっき上を散歩していたあの広大な砂地は跡形もなく海に沈み消え去っていました。本当に珍しいものを見せてもらい感激しました。
 一緒に行っていた韓国の環境保護団体の人が言うには、昔はこのような砂洲がいたるところで見られたが、開発に伴い、砂利の採取がどんどん行われたため、今では、珍しいものとなってしまったとのこと。せめて、これらを残そうと今、運動を起こしているところであるとのことでした。その人は、日本各地の干潟の保存運動のこともよくご存知でした。また、離島問題についての日韓のお互いの状況も議論が出来、医師不足等共通の問題を抱えていることも認識しました。


 せっかくの機会なので、島でのんびりと過ごしたかったのですが、翌日の早朝、直行便で帰国する必要があったため、夕方、定期の高速艇で島を後にして、仁川港に帰ってきました。

 そしてその夜は、仁川市内の韓国最大のチャイナタウンといわれる地区のレストランで行われたレセプションに参加し、地元の人たちの歌や楽器演奏、踊りなどを楽しみながら韓国風中華料理に舌鼓を打ち、親睦を深めました。



 次の日は、朝9時50分仁川発の高松への直行便で帰高。飛行時間は1時間20分程度。昼には自宅に帰りつきました。時間に制約はあるものの、やはり、直行便は至極便利で快適です。

 以上、サプライズもあり、いろいろと勉強になった、2泊3日駆け足での仁川国際フォーラム参加の旅でした。


■■■ 第七十一回 ■■■

知命と処暑と逃水

8月23日

 私は今日、2009年8月23日をもって、満50歳の節目を迎えました。
論語、為政に言う「五十にして天命を知る」の「知命」の年です。
一つ歳を取っただけですが、50の大台に乗り、第二の成人式を迎え、居住まいを正さなければならないような神妙な気持ちになっています。

 今日、8月23日は、24節季の一つ「処暑」でもあります。
解説によると「この頃ようやく暑さもおさまり始め、実りの季節も目前となる」節目の日です。

 このように暦では、とっくに立秋を過ぎてはいるのですが、今年もまた残暑厳しき誕生日となりました。


 残暑は厳しいものの、今年は、梅雨明けが極端に遅かった所為もあり、かんかん照りの日も少なく、「逃水」もあまり見られませんでした。
調べてみて初めて知ったのですが、「逃水」は日差しがだんだん強くなる晩春の季語でした。
でも、私としては、今の季節に当てはめても良いような気がします。

そこで、季語に「逃水」を使った、今日の私の心境にぴったりと当てはまる句を記しておきます。

 「逃げ水や そうかも知れない 生きるとは     吉住孝子」 (俳句 e船団 より

天命を知る努力をしながら、夢と誇りをもって人生後半(?)を生きて行きたいと思います。


■■■ 高松散歩バックナンバー ■■■