一年半ほど前から「書」に親しんでいます。この「書」というものがくせものです。「書道」をしている、というとちょっと違和感があります。道を究めるようなストイックな気分でやるものではありません。
かといって最近の小学校の授業のように「書写」をしています、というとこれでは全く浅薄に聞こえてしまいます。「書写」というと極端に言えば、白いことだけがとりえで趣のないぺらぺらの機械漉きの半紙に、プラスチックで作られた硯にたらした油臭い墨汁を塗るたくっている醜悪な工作場面を想像してしまいます。
それでは「書」の良さなど全く伝わりません。逆に子供たちが書に拒否反応を示すようになり、日本から「書」が衰退してしまうのではないかとの危惧の念さえ抱いてしまいます。
「縦に書け!」などの著作で過激なまでの言葉により日本社会の行方に警鐘を発する書家・石川九楊氏も同様の指摘をしておられます。氏によると、「書は文学」であり、「書は筆触の芸術」である、とのことです。私の「書」に対する感覚も同氏に近いところがあります。
不思議なことに書がうまくなるにつれて自分で書いた「書」を人に見せることがとても恥ずかしくなってきます。裸を見られるような羞恥がでてくるのです。
ですが、「書」を書いている時の自己満足度はとても高いものがあります。自分で満足の行く良い清書が出来たときなどは、千メートルを泳いでプールから上がった時に似た清涼感と充実感が心の中にあふれてくるのです。カタルシスを感じるといっても過言ではありません。
これまで、どちらかというと字が汚いことにコンプレックスを持っていたはずの私が、「書」に対してここまで夢中になれるのは自分自身でも大きな驚きでした。食わず嫌いだったのでしょう。母方の祖父(戦前に夭折)は墨絵画家だったといいますが、やはりこれも血ということなのでしょうか。そうなるとDNAは恐るべし、ですね。