記事一覧

ブルックナーの交響曲

アップロードファイル 26-1.jpgアップロードファイル 26-2.jpg

 ここしばらく、土日に所要が入り家でゆっくりとする時間が少なかったため、久しぶりにのんびりとした休日。

 ブルックナーの交響曲(第八番、第9番)を聴きました。全曲を通して聴いたのはいつ以来でしょうか。とにかくブルックナーは長いのです。

 あるオーケストラのトランペット奏者が「マーラーはインターバルトレーニング、ブルックナーはマラソン」と言っていました。確かに同じ20世紀初頭の素晴らしい、でも長い交響曲をしっかりと9曲ずつしたためた大作曲家(これは本当に不思議です。ブルックナーには0番がありますが「抹消」されたものです。また、マーラーに10番がありますが未完ですし、「大地の歌」は交響曲に位置づけられていません。ベートーヴェンへの敬意?それとも呪い?)でもその曲想は大きく異なっています。もちろんどちらも好きですが気分によって聞き分けています。

 ブルックナーを聴くようになったのは、6年ほど前に単身赴任したてのころです。それまでは、いくら良くても通した演奏が100分近くにもなる交響曲は敬遠していました。でも、単身赴任は時間がたっぷり。料理、家事をやっても土日に家にいると相当な時間が余ります。そこを埋めてくれたのがブルックナーを中心としたクラシックの名曲でした。

 一番好きなのは世間の評判と同じですがやはり「第八番」です。特に第四楽章の始まりの部分。本当に静かな心が洗われる第三楽章のアダージョが終わった後に突然始まる金管のファンファーレに心が気持ちよく高揚していきます。

 ブルックナーの指揮者として世界的に有名だった故朝比奈隆氏はこの部分は「騎馬隊の行進にならないように」と注意を与えていたということです。確かに騎馬隊となると品格はなくなりますが、その辺は良い演奏と微妙な紙一重の感覚のよう。でも、この部分が決まっていると全体がしっかりとまとまります。

 クラシックの作曲家の中でブルックナーほど熱狂的で執着心を持ったファンがいる作曲家は少ないのではないかと思います。クラシックに興味のない多くの人には名前さえもあまり知られていないにもかかわらず、です。インターネットのサイトでも様々なブルックナーの人と音楽についての解説が多くあり、それも尋常の知識ではない専門的なものがほとんどです。それと、敬虔なキリスト教徒であったブルックナーらしく宗教的なまじめなサイトが多いのが特徴でしょう。

 今日はちょっとした梅雨の合間の晴れ模様でしたが、次第に曇ってきて夜には雨。ブルックナーを聴いて、書の半切作品も書いてゆっくりと身体と心の静養になった一日でした。

トラピスト修道院

アップロードファイル 25-1.jpgアップロードファイル 25-2.jpg

所要で函館の隣の北斗市(旧上磯町)に行ったついでに初めてトラピスト修道院を見学してきました。

函館 のお土産として有名なあの「トラピストバター」を作っている修道院といったほうがとおりが良いでしょうか。

函館市内には女性だけの「トラピスチヌ修道院」がありますが、このトラピスト(トラピスチヌ)というのは、トラップ派の人々という意味でそれぞれの施設の固有名詞ではないとのこと。ここの正式名称は「厳律シトー会灯台の聖母トラピスト修道院」というのだそうです。

非常に天気の良い初夏の北海道らしいさわやかな日で青く輝く津軽海峡と周りの木々や芝生の緑が目にまぶしく、修道院の荘厳さも暗く重たいものには感じられませんでした。

40歳ぐらいの修道士さんの案内を受けましたが、厚い布一枚を身体にかぶり、黒い布を垂らし、革のベルトを締めただけの質素な服装と穏やかなしゃべり口。でも、思った以上に人懐っこい方で時折笑いもとろうとされます。

また、礼拝堂の中のパイプオルガンでミサ曲を弾いて披露してくれました。全く予想していなかったことですし、演奏も見事なもので感激しきり。思わず拍手をしてしまいました。

ダ・ヴィンチ・コードを読んだ後だけにカトリックの中でも最も戒律が厳しい方の宗派ということで見学前は少し偏見があったのですがこの修道士さんの本当に穏やかな笑顔と優しさの前にすぐにそれはなくなりました。

それにしても、冬は氷と雪に閉ざされる激寒の地で朝3時半に起きて勉学と作業をこなしながら決められた7回の礼拝をやる生活。34歳から”なんと103歳”までの男性ばかり30人の修道士が営む共同生活は、野菜等はすべて自給自足でまかない、ほとんど外に出ずのものとのこと。当然私には一日も耐えれそうにありません。

人間の信じる力というものの崇高さと偉大さに感服します。

どこか救済された気分と自戒の念が同時に起こってきました。

隷書の魅力

アップロードファイル 24-1.jpg

 最近、といってもここ一ヶ月ぐらいですが、書道の中で隷書という字体の書が非常に気になっています。立て続けに隷書に関する本も三冊買ってしまいました。

 よく街中で料理屋の看板などで太く平べったく大きなひげのような払いを強調した文字を見かけますが、あれがこの「隷書」というものです。けったいなデザインでおちょくっているのかな、と思ったこともありますが、それもちゃんとした由緒正しき隷書のスタイルのようです。

 隷書というのは、まだ楷書が出来る前の今から2000年も前の中国の漢の時代に篆書の簡略化から生まれた文字のスタイルだそうです。隷書という名前の由来については諸説あるようですが、主なものは①徒隷(下僕)出身のものが作ったものだから、②隷人(下級役人)でも使える文字だから、③正式な文字であった篆書に隷属するものだから、というものです。いずれにしてもあまり良い由来の名前ではありませんが、その平べったい独特な字体は何とも言えない味があります。

 写真は私が初めて書いてみた隷書ですが、すぐにこの書体が好きになりました。特に装飾的な払い出しを強調するあたりは書いているだけで楽しくなります。

 隷書といってもいろいろな形、表情を持つものがあるようですので、これから少しづつ習っていって自分の個性がでた隷書の作品をいつか仕上げてみたいと思っています。

山中湖の逆さ富士

アップロードファイル 23-1.jpg

 連休を利用して山中湖へ行ってきました。今朝は5時おきでしたが、好天に恵まれ見事な逆さ富士が山中湖の湖面に出現していました(写真は私がデジカメで撮ったものです。)。感動し、背筋がぴんと伸びた感じでした。

現実と虚構、実と写の対比とはいえ、茂木健一郎流に言うと「地上の富士」とともに、「湖面の富士」にも仮想に基づく確かな現実があるはずです。科学的に言えば水に映っているだけの富士山ですが、そこにはH2Oに色が染まっただけではない確固とした「湖面に映っている富士山だけが持つ」クオリアがあります。

また、禅問答の公案で言う「池の月」と同じ深遠な存在として達観したような神秘性を感じます。

 そこで一句   

 「逆さ富士 春雲つれて すまし顔」 

  お粗末様でした。

* 参考:「脳と仮想」(茂木健一郎2004年 新潮社)

ダ・ヴィンチ・コード

 単行本が話題になった時からずっと読みたかったのですが、文庫本になるまでと我慢に我慢を重ねていました。ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」です。出版社もさるもので、こういう超話題作の文庫化はそう簡単にはやってくれません。痺れを切らして単行本を購入する読者が多いからでしょう。私も意地になっていました。しかも、今回は映画化と同時に出したということで、話題性を高めて、相乗効果を狙ったということでしょうか。

 映画なんぞを先に見させられてたまるか、と上、中、下まとめて購入。内容は、これぞ本格ミステリー。ぞくぞくしながら一気に読み上げたという感じでした。 

 中でも、キリスト教の歴史と宗教儀式、それに西洋美術や自然科学の歴史等に関する蘊蓄は、只者ではない。最初のページに「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている。」と断り書きがついているところから、のけぞってしまいました。読み終わった後では、「ということは、・・・今でもキリストの血が・・・」と眠れなくなりそうな想像が頭の中を廻ります。

 「モナリザ」や「岩窟の聖母」、また「最後の晩餐」の中に見事に隠された宗教的意味合い(あるいはその謎)を知ることができただけでも勉強になりました。そして、これらの絵に描かれた女性の手のしぐさが怖く見えるようになりました。

桃の花

 東京では、桜の花が満開。例年より寒く、雪の多かった年なのに桜は幾分早く開花したようですね。

 でも、この季節、私が一番好きなのは桃の花。東京では花屋さんぐらいでしかお目にかかれませんが、私のふるさとの山は一面濃い目のピンクの可憐な花に覆いつくされます。

 今でも覚えている小学校の一年生を迎える唱歌。次のような歌詞です。

 「桃の花がいっぱいに 咲いてる咲いてる丘の道

 みんなで待ってた一年生 今日から学校うれしいな

 おめでとう んちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃ(拍手)

 おめでとう んちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃ(拍手)

 みんなで仲良く遊ぼうね(?)」

 最後のくだりは怪しいのですが、桃源郷のような里山の景色に歌声が響いて子供心に春を迎える喜びでワクワクしていました。

 私の「3丁目の夕日」の世界です。

浜田真理子ワールド

アップロードファイル 20-1.jpg

 久しぶりに浜田真理子のCDを聞いて休日の夜をすごしました。彼女のCDは、「あなたへ」とライブ版である「月の記憶」、「こころうた」、「romance」の計4枚を持っています。

 すべてがピアノの弾き語りの曲なのですが、その歌詞の斬新さと純粋さに打たれます。また、ピアノも決して音は多くないのですが、クールで確実なタッチで音楽をスイングさせ、情感を盛り上げてくれます。音はキースジャレットに似た乾いたいい感じの音です。(ちょっとほめすぎかもね。)

 浜田真理子を最初に聞いたのは、2年ちょっと前のことです。松江在住で普段は普通のOLをしているため、東京では年に2~3回しかやらないライブの評が新聞に載っていたのを読んだのがきっかけでした。歌謡曲や民謡まで、ジャズっぽく仕立て、独自の歌としてしまうというその不思議で妖しげな魅力に惹かれ、CDを買いました。

 どんな曲でもちょっと耳にするだけで「浜田真理子ワールド」に引き込まれます。

 「そんな中途半端な愛ならどうぞ持っておかえりください」と歌う「純愛」や、「私の足首をつかんだままあなたはどこへ行こうというのか」という「あしくび」は、歌言葉にはっとさせられる曲。

 教会のライブでアンコールにこたえて私の中のゴスペル(俺ゴスペル)だからと歌う「柔」や俺の中のロックの「安来節」は、原曲のイメージとは全く異なるもののしっかりと浜田真理子のゴスペル、ロックとして聞かせる曲。そして、全くジャンルはバラバラでも、「抱擁」、「ラストダンスは私に」、「朝日のあたる家」という私の大好きな曲の数々を換骨奪胎にアレンジしてすべて浜田ワールドに取り込んで弾き語りで歌ってくれます。歌は、飛び切りうまいという感じではないのですが、絶対音感を感じさせる正確な音程の下に目を瞑って身体ごと任せたくなるようなちょっとアンニュイな感じの歌声です。

 世代がほぼ同じということもあるのでしょう。浜田真理子の歌はまさに私のコンテンポラリーミュージックなのです。

 一度、その音楽を体感して多くの人が涙を流すというライブにも行ってみたいのですが、年に数回ですので予定がなかなか合わないのと、プラチナチケット化しているそうなのでいつになることやら。

 浜田真理子という歌手と私、お互い年は同じだけとっていくはずですので、きっといつになっても共感できる音楽を聞かせてくれるものと確信しています。

(今日は、王ジャパンが世界一を手にした日。浜田真理子を聞いたのは、その興奮を少し冷ますためでもありました。)

空海とアインシュタイン

新書で「空海とアインシュタイン」という本を読みました。時代も民族も宗教もまったく違う二人ですが、どちらもとてつもなく大きな存在、宇宙的天才という意味で人間像が重なります。

アインシュタインは物理学から宇宙を考え、空海は宗教的概念で宇宙を捉えようとします。アインシュタインは相対性理論を用いて、空海は曼荼羅を用いて宇宙を説明しています。

どちらも魅力的ではありますが、平安時代の日本において宗教、哲学、教育、土木、美術、書道という広範な分野で卓越した業績を残していて、しかも私と同郷である(これが決め手ですが)空海をどうしても贔屓してしまいます。

青春のサークルゲーム

 今日、久しぶりにジョニー・ミッチェルのベストアルバムを聞いていると、「サークルゲーム」のところで中二の娘が部屋にやってきました。「この歌好きだから後で貸して」というのです。最近CMで使われていて気になっていたのだそうです。

 サークルゲームといえば、映画「いちご白書」の主題歌として’70年頃青春していた人たちには超有名な曲。映画を知らなくてもばんばんが歌ったユーミン(荒井由美)の曲「いちご白書をもう一度」を知っている人は多いのではないでしょうか。あの、「いつか君と行った映画」が「いちご白書」です。

 私は、中学校のころはほとんどロックしか聞かなかったのですが、ジョニー・ミッチェルはなぜかライブの2枚組のレコードを持っていて時々聞いていました。私よりちょっと上の安保世代の雰囲気をうらやましく思い、その空気にちょっと触れてみたかったという感じでしょうか。

 この歌とともに「ウッドストック」と「青春の光と影」も憧憬的でませた気分にさせてくれたものです。

 それを平成生まれの娘が聞きたいと言うのです。名曲はいつの時代にも通用するものですね。一つの曲が時代と世代をつないでいきます。青春の歌は中年親父にも青春させてくれます。

 名曲を聴き、娘に頼られて頬が緩んだ夕方となりました。

菊舎尼について

 日本の漢詩の本を読んでいたら、菊舎尼という江戸時代の女性俳人に出会いました。でも、この人調べてみるとなんとあの時代に2万7千キロも歩いて旅をしていたみたいです。すごい。

 漢詩は素人の率直な言いぶりが好感持てるといった類ですが、俳句はさすがにいいものがいっぱいあります。加賀の千代女と並び称されるだけの事はあると納得でした。

 私の気に入った句

 「雲となる花の父母なり春の雨」(菊舎尼)  いかがでしょう。自分の墓所と定めた寺で句碑とされているものです。解釈はいろいろあると思いますが、父母を供養する心の美しさが良く出ていると思います。魂の昇華を見るような気がします。

 もう一つ、「山門を出れば日本そ茶摘唄」(菊舎尼)